大川硝子工業所

読みもの

大川硝子に影響を与えた、年下のDJ仲間

僕の好きな人 vol.2 -前編
Guest 関山雄太さん(デザイナー・映像ディレクター)

ガラスびんを軸としながら、さまざまな分野の方とともに日々活動している大川硝子工業所。そんな大川硝子にゆかりのある人と代表の大川が、仕事や生活にまつわるあれこれをトークする「僕の好きな人」。

第二回目の対談のお相手は、デザイナー・映像ディレクターの関山雄太さんです。2015年に制作した大川硝子工業所のウェブサイトや地球びんのリニューアルデザインなど節目のタイミングをともにつくり、最近では新商品・BINKOPのプロモーションムービーの制作も担当してもらったという、大川硝子を語る上で欠かすことのできない存在と言っても過言ではありません。

元々はDJ仲間として出会い、仕事の道を切り開く様をお互い見てきた二人。あの時密かに思っていたこと、仕事や家庭のこれからのことなど語らいました。

はじまりは嫉妬と羨望

大川 関山くんとの出会いは、共通の知り合いのイベントで紹介してもらったのが最初だよね。それが2008年の末ぐらい。

関山 やばい、15年前。24歳だからフリーランスになる頃だ。

大川 俺は29歳くらいか。あの頃さ、我々はDJに熱を燃やしてたじゃん?

関山 (笑) うん、そうだね。

大川 でもあの頃の俺は他の音楽仲間とイベントやってたけど、自分がやりたいこととちょっと違うなと悶々としてて。そんな中で関山くんに出会って、いままで会ったDJの人とはなんか違うぞって感じたんだよね。要は、すごい洒落てる人だなと(笑)
で、話を聞くとデザイナーという仕事をしていて、さらにはディスクレビューサイトを自分で作ったりグループ展なんかもやっててさ、とにかくめっちゃ動いてて超気になる!って思ったのよ。俺はこれまで年功序列の時代を生き抜いてきたのに、いい年下に一目置かざるを得ないみたいなね。

関山 え〜そうだったんだ、おもしろいな。

大川 という感じでずっと熱視線を送ってたんだけど、もう嫉妬の対象だったんだよね。何に嫉妬してたかっていうと、当時の俺はフラフラしてて仕事にも一生懸命になれない生活を送ってたんだけど、関山くんはフリーランスになりたてで、すべてにおいて一生懸命だったじゃん。

関山 うん、あの時は必死だったね。

大川 仕事も遊びも必死なところを見せつけられて、自分が恥ずかしくなって。その後も関山くんが活躍していく様をずっと見てるとさ、自分で成果を積み上げて、いろんな人と出会って、仕事が増えていくんだってことがわかって、こうやって仕事しなきゃいけないなと反省をしたんだよね。
関山くんはいろいろな領域のことをやってるけどさ、スタートは何になるの?

関山 最初はウェブデザインだね。学生の頃からずっとウェブが好きで作ってて、高校卒業してすぐ東京に来てウェブデザイナーとして会社員になったのが始まり。

大川 そこから若くしてフリーランスになってるけどそれはどういうきっかけがあったの?

関山 ちょっと長くなるんだけど、深夜に会社から帰っているときに好きなウェブメディアのライターの人を見かけてさ、思い切って話しかけたらそのまま飲みにいくことになったのよ。

大川 (笑)

関山 ちょうど向こうはおいしい店を飲み歩くっていう企画の取材中だったみたいで、そこに急に読者が現れて、一緒に飲むことになるっていうね。(当時の記事
で、そのライターの住さんがウェブデザインの会社をやっているから、「会社辞めたいんです」ってアピールしたら(笑)、うちの仕事してくれって頼まれて。その一ヶ月後には仕事辞めてそこの仕事もらうようになったんだよね。
だから、たまたま憧れの人に声をかけたらフリーランスになっちゃったという感じ。

大川 すごいね、それ(笑)
そもそも出身は名古屋だけどさ、学生の頃から東京に来てウェブデザイナーになりたいって考えてた?関山くんの学生時代なんてウェブはまだ黎明期だったと思うけど、誰かに教えてもらったりしてたの?

関山 いや、もう独学だね。当時のインターネット上にはそういう人は多かったと思うけどね。
いろいろと身に付けていくうちに、独学でやっていたことが意外と東京来て仕事になるんだということに気づき始めて。あとは音楽イベントを始めたり、イベントでクリエイターの友達もだんだん増えてそこから仕事もらえるようになって、軌道に乗っていった感じかな。

大川 そんな関山くんの活躍に嫉妬と羨望のまなざしを送りながら、お互いにDJ活動は3、4年くらいやってたよね。で、俺はやめてから音楽関係の人と繋がりが減っていき、遊びも満足したし子供も生まれたし仕事を一生懸命にやるターンが来るんですよ。

関山 あはは(笑)

お互いの挑戦となったウェブデザイン

大川 その後しばらくしてうちで新商品を作ることになって、パッケージデザインの相談を関山くんとマリちゃん(関山さんの奥さん)にしたんだよね。それが会社にデザインというものを取り入れるきっかけになったんだよ。
そこからウェブサイトの制作も地球びんのパッケージデザインもお願いしてさ。あの時期ってうちにとって、売り上げがどんどん良くなっていった大事な転換期だったのよ。

関山 それは本当にすごいことだよね。

大川 その時期ってちょうどInstagramが流行りはじめた頃で、関山くんが告知のタイミングとか内容を指南してくれたんだよね。でも、俺らはDJ時代に散々音楽イベントで告知やってきてたからもう手慣れたもんじゃん。それで当時を思い出しながら愚直にやっていったら結構うまくいったんだよね。
いまでこそデザインは商売にとって切り離せない要素になっているけど、デザインの効果をすごく明確に感じたのはそこだったな。

関山 業界的にデザインとかプロモーションにそこまで重きを置く感じじゃないしね。

大川 そうなんだよ。うちは物を売る会社だから、デザインに対しては投資的な考え方になっちゃうんだよね。デザインは費用払って作ってもらって、活用していくものじゃん。だから、パッケージとかウェブをデザインしてもらったからって売れるとは限らないところもあるでしょ。
業界的にはそういう利益になるかわからないものにお金を出すことに苦手意識があると思うし、実際俺もあったんだけど押し切ったんだよね。

関山 結構悩んでたよね。

大川 何もやらないよりはやった方がいいし、あの時は俺一人でやってたから、せめてそこにはお金はかけないといけないって思ったのかな。
でもそうやってデザインを取り入れたことで、デザインの専門学校との付き合いが生まれたり、そこからまた新たな商品が生まれたり、社員が増えたりみたいな流れが起きたよね。

関山 それはよかったよね、本当に。
俺はあの頃ウェブデザインの仕事をずっとやっている中で、いい写真とかいいイラストがないっていうことが結構あったんだけど、デザイナーだとそこまでディレクションできなかったのよ。会社で受けてる大きい案件だと分業になっちゃうし、アートディレクターから下りてくるものをこなすパイプ役でしかなくて、それがすごく嫌な時期があったんだよね。

そこで、少しずつ受けてる仕事の撮影現場を覗きに行って、ちょっと意見言ったり動画撮ってもいいですかって相談してみたり、どうにかウェブデザイナーからアートディレクター側に変わろうと動き始めたのよ。
デザイナーからディレクターになって、ちゃんとクライアントと話して、何を作るのか、どういった素材が必要か、誰をアサインすべきかとかみたいな全体のディレクションをし出してたんだよね。で、いま振り返ると、大川硝子のサイトはその最初の事例にさせてもらったと思う。

大川 おーなるほどね。ちょっと自分の力を試すみたいな。
あのウェブサイトって、関山くんがいわゆる会社然としたコーポレートサイトじゃない方向で行こうって言ったことが大きいと思ってるんだよね。ガラスびん業界はそういったサイトが多いからそうじゃない方が差別化できるって提案してくれて。
実際にウェブサイトができてからお客さんに会うと、第一声に他と違いますよねってよく言われて。その他と違う感じが依頼する理由になったということが多かったから、狙い通りだと思ったな。

関山 それはコーポレートサイトっぽいものではなくデザイン性高いものに寄せるとか、そもそもいい写真が撮れる環境にあるっていうのも大きかったと思うよ。大川くんは俺みたいなデザイナーを入れたり、なんか余裕があるよね。

大川 えっ、余裕!?

関山 いろんな面であると思うよ。 学校の先生もやってるけど、そこまで利益にならないことに自分のリソースを割くのは余裕がなきゃできないと思う。自分も先生をやり始めたけどもう全然余裕ないし。

大川 もっとがむしゃらにやったらいいのかもしれないけど、なんかかっこ悪いって思っちゃうからかな。だからってすかしてるわけでもないんだけどね、そういうふうにも見られたくないし。

関山 ひねくれてるってことだよね(笑)

大川 そう、結局はそこに着地するね(笑)
お金は欲しいし頑張りたいけど、それに邁進するといいことができなくなっちゃうから、ほどほどにってことだね。やりすぎると本質が乱れるから、ある程度このぐらいって決めておいて、それ以上はがっつかないっていうスタンス。その分売り上げは微妙かもしれないけど、心のバランスはとれてるかな。

関山 それ大事だよね。でもなかなかそうできないからね。